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ちょっといい話

Coulyne

太平洋戦争も終わりに近づいた頃、日本各地の都市に米軍機の爆撃が始まりました。そこで、東京に住む小学生は、学童疎開といって親元を離れ、空襲の心配のない地方にある旅館やお寺に集団で寝泊まりをして生活をすることになりました。それが、いわゆる国策のひとつでもあったのです。 子供たちの楽しみは、週に一度、団体生活を離れて、近在の農家に泊まりに行くことでした。おそらく、まだ幼い彼らに少しでも家庭の団欒を味あわせたい意味もあっただろうし、いつもより少しだけ栄養のある物を食べさせるという目的もあってのことだと思われますが、各自それぞれの農家に振り分けられ、泊まりに行く家はいつも決まっていました。 Aさんは、その時にお世話になった家族のことを、戦後50年過ぎても忘れることがありませんでした。 子供が七人もいる農家でしたが、泊まりに行くたびに、その家では、集団生活では食べることができない、おはぎやぼた餅のおやつを作って待っていてくれたからです。ご飯もお腹いっぱい食べさせてもらえました。また自分より少し年上だった長男のお兄さんに遊んでもらったことがとても楽しい思い出で、なぜその家の名字を覚えておかなかったか悔やまれてなりませんでした。 仕事を引退した時、Aさんが一番したかったことは、疎開先でお世話になった、その家を訪ねてみることでした。しかし降り立った駅の名前と泊まっていた温泉の名前を思い出すのがやっとで、うっすらと覚えているのは、お世話になった家の庭の様子と、その家から眺めた山の景色だけでした。 しかしAさんは何としてでもその家を見つけ出してお礼を言いたかったのです。そうでないと死んでも死にきれないくらいな気持ちになっていました。なぜなら、後になって考えてみたら、他の子供たちに我慢をさせても、Aさんだけには、当時は貴重だった砂糖を使ったおやつを作って食べさせてくれたのではないかと思えてならなかったからです。 だから時間を作っては列車に飛び乗り、その駅に降り立ち、当時お世話になった家を探し続けていたAさんがいました。 何度目かの時、やっと懐かしい山の景色に出会うことができました。「 ああ、そうだった、あの山をこんな感じで眺めていたんだっけ 」 と、わくわくする気持ちを抑えながら歩いていたら、50年以上たっているのに、当時とまったく変わらない庭が目に入り、あとは夢中でその家の玄関の前に立ったのです。 声をかけると、予科練に行くと張り切っていたお兄さんが、白髪の70代の老人の姿で現れたのでした。 涙で抱き合うには、お互い年をとり過ぎていた二人は、お互いの息災を祝い、それまでの人生を語り合ってお酒を飲みました。二人とも、お酒が大好きなお爺さんになっていたのです。 私の実家には、毎年暮れに、親戚でも友達でもない方から父親にお酒が届きます。 贈って下さる方は、東京の練馬区に住む、75歳くらいの男性です。 じつはAさんが探していた家は私の実家で、遊んでくれたお兄さんは私の父親だったのです。 「 どっちかが、ころっと逝ったら終わりだな 」 と言いながら、 Aさんからは毎年お酒が届き、父親はりんごを贈っています。

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​光凛

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