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最後のステージ

子供を亡くしたせいもあるのですが、これ以上私の大切なものを失いたくないと強く思う反面、人にも物にも執着するのはよそうとも思っているのです。 あの人がいなければ生きていけないとか、これがなければ生きていけないという人はたくさんいますが、実は頭で思うだけのことで、実際には、どんなに大切でかけがえのない人や物を失ったとしても、人は歯をくいしばって生きていくものです。 いつの日か自分もまた、誰かに喪失感を味わせて、この世から消えてしまうわけで、人にだけ辛い思いをさせて、自分だけはごめんだというわけにはいかず、良くも悪くも、【最後に人生の帳尻が合う】のが、この世のルールてす。 不思議なもので、何の苦労もなく面白おかしく一生を終えた方より、ご苦労の多かった方が亡くなられたときの方が、人はより深い悲しみを覚えるようですが、これも【人生の帳尻が合う】ということに思えてくるのです。 自暴自棄にさえならなければ、今はどんなに不幸で理不尽だと思っていても、長い目でみたら順調そのものな人生かもしれないのです。 宮澤賢司や石川啄木は死後に評価されていますが、自暴自棄にならすに作品を書きためていたから帳尻が合ったわけです。 人生というものは、人が生きている間だけのことをいうのではなく、その人が生きていた証を目にできる間のことをいうのではないかと思えてなりません。 だから自殺してもおしまいにはならないし、夭逝ならなおのことです。 むしろ死後に、人生最後のステージがやってくるのだと思えてなりません 。

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2020/5/27 メール受信の調子が悪くしばらく受信する事ができずご迷惑をお掛けして大変申し訳ありませんでした。 本日から復旧いたしましたのでどうぞお気軽にご連絡ください。

6月に思う

かつて住んだ家は近くに田んぼがあったので、6月の夜ともなるとそれは賑やかな蛙の鳴き声がした。 うるさいほどの蛙の鳴き声を聞きながら、田んぼの畦道に蛍を探しに出掛けたこともあった。 生きていたなら中年にさしかかるであろう息子が、小学5年生の姿で私の前で宿題をやっている。 窓の外は蛙の大合唱。 宿題を終えた子供の頭をなでる、まだ若い母親の自分がいる。 私は若い頃に戻りたいとか、人生をやり直したいなどと