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余生

つい数十年前まで、日本人の寿命は五十年と言われていました。 つまり、五十歳を過ぎた人は、余生を過ごしていたことになります。 そのせいかどうかはわかりませんが、私が生まれた時に、祖母は今の私と同じ歳だったのに、私の記憶の中では祖母はすでにしっかりおばあちゃんでした。 時代も違うせいもありますが、とにかく祖母は老けていたのです。 老けるということは、若いからこそできることのいくつかをあきらめて生きているということですが、最近自分が同じ年齢になって思うことは、それはそれでなかなか賢い生き方でもあり、実は難しくもあるということです。 この歳になれば、うまい儲け話にだまされるだとか、先のない恋愛にのめり込むだとかをしている時間はないのですが、これらはどちらも、まだまだ取り返しがつく時間が自分に残されている、つまり自分がまだまだ若いと思っているからできてしまうことであって、五十歳以降の人生を余生と仮定したなら、そんなもったい時間の無駄使いはできないものです。 友人に孫ができる年頃になったら、いくら自分は違っても、孫がいてもおかしくはない年齢になっているのだということを自覚する瞬間があってもよいのではないかと思います。 それは、中学生の子供がいてもおかしくない年齢だとか、結婚している子供がいてもおかしくない年齢だとかを自覚するのと同じで、いくら自分は若いつもりでいても、時にはそのあたりを基準にして今の自分の言動と比べてみることも必要です。 若いつもりでいたら、あきらめることなど何一つないかもしれませんか、少しづつ余計なものを削ぎ落とし、あきらめるべきものは潔くあきらめていかなければ、現代のように寿命が長くなっていると、余生への出発のタイミングがわからなくなってしまいます。 とくに人から相談を受けるような年齢になったら、いくつかのあきらめが必要となります。 いくつになっても、がつがつと恋人探しをしているような人や、お金への執着心が若い頃のままのような人は、相談した人に、相談した自分がバカだったと後悔させるようなアドハイスしかできないものです。 ある程度の年齢になったら、若い頃 には欲しくてたまらなかったパートナーやお金などはすでに手に入れているか、あるいはもう自分はいらないのだと思えないと、いくつになっても物欲しそうで油断できないような人になってしまいそうです。

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2020/5/27 メール受信の調子が悪くしばらく受信する事ができずご迷惑をお掛けして大変申し訳ありませんでした。 本日から復旧いたしましたのでどうぞお気軽にご連絡ください。

6月に思う

かつて住んだ家は近くに田んぼがあったので、6月の夜ともなるとそれは賑やかな蛙の鳴き声がした。 うるさいほどの蛙の鳴き声を聞きながら、田んぼの畦道に蛍を探しに出掛けたこともあった。 生きていたなら中年にさしかかるであろう息子が、小学5年生の姿で私の前で宿題をやっている。 窓の外は蛙の大合唱。 宿題を終えた子供の頭をなでる、まだ若い母親の自分がいる。 私は若い頃に戻りたいとか、人生をやり直したいなどと