昨日は祖母のことを書いたので、今日は祖父のことを書きます。 祖父は一言で言うと、もう笑っちゃうくらい自由奔放に生きた人でした。 公民学校 ( 今でいう高校 ) で数学と、軍事教練を教えていたそうなのですが、怒鳴るし、ぶん殴るし怖くて有名な教師だったようで、父親などは、たまたま知り合った方が運悪く祖父の元教え子で、「 親父さんには何度も殴られた。ひどい目に遭った 」 と言われ、謝ったことがあるそうです。 終戦で、民主主義の時代になり、居心地が悪くなったからかわかりませんが、学校は辞めて、次は地元の農協に勤めたようです。しかしこれが祖父の転落の始まりでした。 連日連夜の接待の日々で、芸者遊びに目覚め、もともとお酒は好きだし、堅い仕事をしていた人に限って遊びに溺れるという典型的なタイプだったらしく、気がつけば山のような借金が残り、それの清算をするのに、実家は3千坪の土地を手放したそうです。 私はその辺の記憶が曖昧なのですが、確かに小さい頃はあったはずの田んぼが、途中から無くなってしまったので、つまりは田んぼすべてが祖父の芸者遊びに消えたということなのでしょう。 随分ひどい話なのですが、私は何となく祖父の気持ちがわかるような気がするのです。 まさか戦争に負けるなどとは思わず、お国のために一生懸命軍事教練に励んだのだと思うのです。それは、自分の教え子がいずれはもっと体罰の厳しい軍隊に入ったことを想定して、くじけることなく昇進してほしい気持ちから厳しくしていたのに、終戦を境にそれが何の意味もなくなり、ヤケになって遊びに走ったのではないかとも思えるのです。 私が小学校に上がる頃は、当然のことながら家でしかお酒を飲まなくなっていましたが、それでもかなり偉そうな感じのおじいちゃんでした。 祖父は、私を連れて出かけ、お昼になってどこかお店に入ったとしても私に何が食べたいかを聞く人ではありませんでした。自分が行きたい店で食べたいものを 「 天ざる ふたつ 」 という具合に頼んでしまう人でした。 私はラーメンやオムライスが好きだったのですが、祖父が行く店にはそんなものは最初からありませんでした。 晩年は脳梗塞で身体が不自由になり、オムツの生活になりましたが、オムツを替えてもらいながらも、まだ偉そうな感じでした。 祖父のお葬式の日は誰もが、自由奔放に生きた人生をうらやましいと口にしていました。 ただ叔母たちだけは、「 ○奴(やっこ ) が来ない。 そういえば○梅 も来ない 」 などと、かつて祖父が大金を使った芸者さんたちの名前をあげて、焼香に来ないことに冗談半分に腹をたてていました。 今になって思えばこれはかなり笑える話で、娘たちが父親が入れ込んだ芸者さんの名前をすべて知っているのだから、祖父の性格がよくわかるというものです。 この祖父は、私にひな人形を買ってくれました。そのあとは10年以上、アメ玉 ひとつ買ってくれませんでしたが、私が車の免許を取って、次はおんぼろ車を買って乗ろうと思っていたときに、小切手を一枚切ってくれました。 それで中古車は買えたのですが、何度も乗せてあげないうちに、倒れてしまったことが残念です。 その小切手を渡すとき、難しい顔をしながら 「 あまりおんぼろ車は買わないこと。その方が安全だから 」と一言だけ言いました。 私に小切手を切ってくれたのは祖父が最初で、多分最後の人です。 身内の中ではあまり評判がよろしくない祖父ですが、この祖父の話が出るときは、みんなの顔が笑っています。どんなに財産を増やした人でも、嘘やごまかしのある人生を送った人は、笑いながら語ってはもらえないものです。 だから私も、笑いながら語ってもらえる人になりたいものだと常々思っています。
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スピリチュアルカウンセラー
光凛
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